「おーっす」
 翌朝、潤一郎は何食わぬ顔でいつものように教室に現れた。陽の思いもまるで意に介さぬような表情で。
「久しぶりやな」
「半年くらい休むんかと思たわ」
 圭介と北斗から、そんな辛辣に似せた言葉が飛んでくる。
「まあ、この辺で出てきたらんと、淋しがるか思てな」
 わざと気取って言う潤一郎は、もう何事もなかったようだ。
 そこへ、ひとりの男子生徒が教室をのぞきこむ。
「武藤潤一郎おる〜?」
「おう、来たか弟」
 潤一郎は振り返るとそう笑う。やってきたのは大洋だった。自分の席にいた陽と晶は、きょとんとした表情でやってきた大洋に視線を送る。やがて、潤一郎と大洋は、教室を出て行く。
「なんなんや、弟と武藤」
「さあ…? ホントになんなんだろうね」
 晶と陽は首を捻るしかない。
「ほい、これがご要望の情報や」
 廊下へ出た大洋は、そう言って1枚の紙切れを潤一郎に渡す。それを見ると、潤一郎はニッと笑う。
「やっぱり予想どおりか。ロクでもないな、二人とも」
 そう言うと、潤一郎は紙を折ってポケットにしまう。そこにはふたりの生徒の名前が書き込まれていた。ひとりは、潤一郎に言い寄ってきていた三年生の女子生徒。そして、もうひとりはこの間相手をしてやった男子生徒だ。共に上級の三年生。
「そんな情報、どうすんねん?」
 大洋は退屈そうな顔で潤一郎にそう聞く。大洋にとっては、自分で役に立てることのできない情報は、収集に意味はあっても用途に深い興味はないのだ。
「ま、保険みたいなもんやな。女が後腐れのうても、ひっついとお男がうるさいパターンが多いからな。サンキュ、弟」
「これくらいやったら朝飯前やから別にええけど。火傷すんなよ」
 教室に戻ろうとしていた潤一郎は、大洋の言葉にニッと笑う。
「ご忠告痛み入る」
 おどけてそう言うと、潤一郎は教室に消えた。
 大洋は少しの間唇の端を曲げていたが、やがて同じように自らの教室へ消えた。
「陽の弟となに話ししとったん?」
 潤一郎が席に戻ってきたのを確認すると、晶はわざとにっこり笑ってそう聞く。潤一郎はその晶に意味ありげに笑う。
「男同士の会話やな。弟の情報収集能力はありがたいわ」
 じと目のまま見上げてくる陽にも軽く笑顔を送ってから、潤一郎はそう言って席に腰をおろす。きょとんとした顔で見てくる晶に、陽は苦笑いを返すしかなかった。

 スタジオ・レッドスターでの練習はスタジオがとれた時だけであったが続けられた。少しでも完成度を上げたいという潤一郎の考えからだ。実のところ、バイトが忙しい圭介がいちばん参加率が悪かったのだが、それも今日の練習で最後になる。もう記念祭は目の前だ。
「おっしゃ。ほんなら、恋心、エバー、ドリーム、ティーンと続けて行って、締めよか」
 一通りの練習を終えた後、潤一郎はそう言ってメンバーに笑いかける。このスタジオにいる間だけは、陽もいつものように笑ってくれた。
「特にあんま参加してへん高遠はしっかり合わせよ」
「余計なお世話や」
 言いながら、圭介はマイクを手に取る。
 健太がスティックを打ち鳴らし、勢いよく曲に入っていく。いつもの通り、圭介は臆することなく歌に突入していく。
(相変わらず気持ちよさそうだな…)
 キーボードに指を落としながら、陽はそう微笑む。いつもは仏頂面でいることが多い圭介だが、ことこのスタジオで歌を歌っている時は生き生きとしている。その姿を知っただけでも、このバンドに参加してよかったと思う。完成度も高いから、弾いていて楽しい。
「おっしゃー! 後は本番で勝負や!」
 全ての演奏を終えた直後、圭介が右手を挙げてそう宣言する。いつもの何事にも感心がないような様子ではなく、この瞬間は年相応の少年の姿に見えた。陽の頬に優しい笑みが浮かぶ。
「あとは各自で完成度上げとってな」
 潤一郎もそう言って笑う。その笑顔を陽にも向けた。陽は、遠慮がちな苦笑いを浮かべるしかない。
「おっしゃ、ほんじゃあ今日は解散!」
 潤一郎がそう宣言して、全ての全体練習は終了した。
 わいのわいのとスタジオを出ると、待機していた次の組と入れ替わる。
「じゃーなー」
 自転車組の圭介、健太、賢一は、軽く手を振りながら帰路につく。軽くふざけ合いながら三人の姿はやがて坂下の角を曲がって見えなくなっていく。
「またな〜」
 見送る潤一郎を仰ぎ見ていると、唐突におどけた表情が降ってきた。万全の信頼はおけないが、男性ばかりだとは言え、周囲の友人たちはそれなりの評価をしているようなのだ。例え、女性にだらしがなかったとしても。それならば、謝った方がいいのかなとも思う。ギクシャクしたまま本番へは向かいたくない。
「さてと、ほんじゃあ、今日も送りますか」
 そう言う潤一郎に、陽は小さく首を振って苦笑いを浮かべる。
「あらら。俺も嫌われたもんね」
 潤一郎はそう表情を作っておどける。だが、陽は小さく微笑んだ後、眉を寄せる。
「ごめんね、武藤くん。この間はキツいこと言って…」
 その陽に、潤一郎は一瞬きょとんとした後、ニッと笑う。
「あれくらいどうってことあらへんけど」
「でも…」
「ま、当たらずとも遠からずってとこやな」
 そう言って潤一郎は陽に笑顔を向ける。
「それでも菟原までは一緒やからな。それ以上の無理強いはせんとくわ」
「うん…。ありがと」
 陽は小さく笑うと、ゆっくりと頷いた。
 そのまま言葉もなく歩き、乗った電車は菟原駅に滑り込む。
「武藤くん!」
 改札を出たところで、陽は思い切って潤一郎に声をかける。少し前を歩いていた潤一郎がゆっくりと振り向く。
「バンド、頑張ろうね」
 その言葉に、潤一郎は得意げに笑う。
「やるからにはてっぺんやな。葛城も期待してるで。ほなな」
 潤一郎はそう言うと、軽く手を振って去っていく。
 陽も小さく手を振り返した後、ゆっくりと家路についた。

 祭の前の高揚感もあって、時間は意外なくらい早く過ぎていく。
 圭介は、翌日からの記念祭に思いをはせながら、台所でコーヒーを飲んでいた。
「はえーなー…。明日からもう記念祭か…」
 目の前の譜面が、明後日の文化部公演の後にある予選会の曲目だ。譜面は読めないものの、それにもう一度目を通していた。横には、手持ちのラジカセがヘッドホンをつけられてスタンバイしている。
「おにーちゃん、洗濯物、これだけ?」
 パジャマ姿の真由子が、脱衣所から出てきてそう聞く。乾きかけの髪が元気に跳ねてはいるが、少しけだるそうな表情だ。
「ああ、そんだけ。よろしくな」
「洗濯するのは洗濯機やもん。わたしちゃうから」
 真由子はそう言って、コンコンと軽い咳を二つほどする。
「風邪か?」
 風呂上がりなのか風邪で熱があって火照っているのかわからない赤い頬を見て、圭介はそう聞く。
「まさか。明日知事杯やで。風邪なんかひいてられへんもん」
 真由子はそう言って笑う。だが、その笑顔に少し引っかかりも覚えるのだ。
「やったらええけどな。無理はすんなや」
「うん」
 頷いた真由子は、のろのろと部屋へ戻っていく。閉まったドアの向こうからまた乾いた咳が聞こえた。
(全然大丈夫ちゃうやん…)
 圭介はそう思いながら、コーヒーを口に運ぶ。
(あのアホ、倒れるまでやめへんからな…)
 マグカップを脇に置いて、譜面を手に取る。
 また、ドアの向こうから乾いた咳が聞こえた。
 明日は大変なことになりそうだなと、予感に似た確信が通り抜けていった。

                                  To be continued…

2008.09.05 Ver.1.00 Up

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