合宿は順調に進む。
 予定していたプログラムも順調すぎるぐらいに消化されていた。
 最終日も、順調にプログラムは消化され、すべての予定が完了した。
 既に帰る準備もすませ、銘々部屋に戻って明日の帰神のために眠りについている。その中で、真由子は布団に入ってもなぜか眠れずにいた。
「う〜…」
 バッと起き上がると、隣の由衣はもうとっくの昔に夢の中だ。規則正しい寝息が小さく開いた唇から漏れている。
「なんか寝付けへんなあ…」
 バリバリと髪をかきむしる。お気楽な性格ではないかもしれないが、人一倍大会などへのプレッシャーは感じないはずだった。それが、今度に限ってはなぜか少しの緊張感が胸にある。いつもは感じたことのない感触だ。
「明日早いのになあ…」
 口をついて出るのは自分に対する愚痴ばかりだ。こうなると、余計に眠れないことはよくわかっていた。
「飲み物でも買ってこ…」
 真由子はそう呟くと、由衣を起こさないようにそっと部屋から出ていった。
 既に人の声の絶えた薄暗い建物を出て、しばらく歩いたところに自動販売機があった。元々多少の恐がりである真由子は、心細く思いながらも建物の扉を開けて外へ出た。
「よっ、斉藤」
 急にかけられた声に慌てて振り返ると、そこには汗をかいた北斗がいた。
「佐竹…先輩?」
 思わず上げそうになった悲鳴をぐっとこらえ、真由子はそう聞く。
「なにやってんですか、こんな時間に?」
「それはお互い様やろ? 斉藤こそどうしたんや?」
「寝付けんかったんで、飲み物でも買おうかなあ思て出てきたら、いきなり佐竹先輩に声かけられたんで、びっくりしましたよ」
 真由子は唇を尖らせながら不満そうにそう言う。
「佐竹先輩こそ、どうしたんです?」
「ああ。俺も一緒。なんか寝付けんかったから走っとったんや」
 あくまでも爽やかすぎる顔で笑う。真由子はその北斗にため息をつくしかない。
「相変わらず陸上バカですね〜」
「バカ言うな。疲れた方が寝れるやろうが」
「でも、疲れすぎても寝れませんよ」
「そんな経験ないけどな」
 そんな押し問答が続く。
「飲みもん買いに行くんやろ? いちおーボディガード代わりについてったるわ。もう遅いしな」
「送りオオカミにならんとってくださいよ」
「見損なうな」
 軽く笑う真由子の言葉に、北斗は思わず真由子の頭を軽くはたく。そうして、ふたりで自動販売機までやってきた。
「斉藤、なに飲む?」
「奢ってくれるんですか?」
 振り返って言う北斗に、真由子は驚いたように北斗の顔をのぞき込む。
「おう。もう少しトレーニング付き合ってくれ」
「ジュース1本で買収しようって魂胆ですか? 安〜っ」
 にかっと笑う北斗に、真由子は唇を尖らせた。
「ま、気が向けばやけどな。とにかく選べ」
「じゃあ、セーフガードのレモン!」
「俺も一緒のでええか」
 そう言って、北斗は取り出し口に転がってきた缶を真由子に投げてよこした。
「いただきまーす」
「へえへえ。どうぞ」
 缶のタブを明ける乾いた音が、軽く葉ずれの音しか聞こえない周囲に響いた。
「ぷはーっ! 生き返るなぁ」
「すっごくおじさんくさいです、それ」
「おじさんくさい言うな!」
 笑い転げる真由子に、北斗は思わず指を突きつけて言う。
「先輩はどうですか? 地区予選、記録伸びそうですか?」
「さあなあ…。やるだけのことはやったつもりやけど、どうやろな」
 北斗はそう言って自嘲気味に笑う。そうやって今まで記録が伸びた試しはないからだ。どうも、自分は本番に弱いらしい。
「今回は頑張ってくださいよ〜。みんなで県大会に行きましょうよ〜」
「斉藤と安藤はええやないか。もう決まったようなもんやろ?」
 北斗の言葉に、真由子の表情が少しかげる。
「そんなの明後日になってみんとわかりませんよ。わたしも由衣ちゃんも」
「えらい慎重やな。普段の威勢の良さはどこ行ったんや?」
 真由子の言葉に、北斗は柔らかく笑いながら言う。その表情に、真由子の表情が少し動いた。
「わたしかって、弱気になる時くらいありますよ。そういうところは、わたしより由衣ちゃんの方が強いです」
 北斗から顔を逸らし、真由子はそう言った。由衣の名を口に出すたびに、軽い罪悪感のようなものが胸を刺した。大切な友達を裏切っているような暗い気持ちが広がる。
「斉藤は普段からようやってるやん。普段通りでエエやんか」
 北斗はそう言って真由子を見た。少し俯いてジュースの缶を持つ姿は、いつも以上に小さく見える。いつも見ていた明るい真由子の裏には、こうして緊張や重圧に耐える姿もあったのだなと思い至る。その上、ものぐさな圭介の面倒まで見ているのだ。
(いつも、一人で頑張っとんやな…)
 そう思うと、もう止められるものはなかった。
「なあ、斉藤…」
 北斗も真由子から視線を外す。その呼びかけに、ふっと真由子は北斗の横顔を見上げた。
「俺と、つき合わへんか?」
「えっ?」
 自分の方を振り向いた北斗の目は真剣だった。陸上をやっている時と同じ真摯な瞳だった。真由子は茶化そうと口を開いたが、喉の奥からは何も言葉が出てこない。
「斉藤が俺のことどう思っとおかは知らんし、斉藤につきあっとお奴がおるとかも知らん。でもな、悪いけど本気なんやわ」
「あ…」
 真由子は思わず顔を伏せた。由衣の笑顔が頭を回る。先輩後輩以上はあり得ないと思っている人物からの本気の告白。自分が本当に恋している人の背中。手の中にあるジュースの缶の冷たさでさえ、今はもう感じない。夜風の音も聞こえなくなった。
 そうして、真由子は口を開いた。
「ごめんなさい、先輩…。今、好きな人が他にいるんです…」
「そうか…」
 北斗は夜空を見上げた。恐ろしく綺麗な星空が広がっていた。北斗にとっては、予想していた答えではあった。
「ごめんなさい…」
「ええよ。大会前に惑わしてすまんかったな」
 優しく言う北斗に、真由子はぶんぶん首を振る。こんな時でも、北斗は全くいつもと変わらない。その北斗の様子に、真由子は少しだけ救われた。
「それじゃ、お休みなさい…。ジュースごちそうさまでした」
 真由子はそれだけ言うと、ばっと宿舎への道を駆け出した。
「悪いな、斉藤…。けど、諦める気はないんやわ…」
 駆けていく真由子の小さな背中を見ながら、北斗はそう呟いていた。

 真由子は部屋に戻ると、頭まで毛布を被った。隣で眠っている由衣に気づかれないように、頭を抱えた。真摯な北斗の瞳が蘇る。
「ごめん、由衣ちゃん…」
 真由子はそう呟くと、頭を抱えて小さく丸まった。自分のせいでないことはわかっていても、由衣に対する罪悪感は消えそうにない。

 翌朝、合宿最後の朝食をとりに食堂へ降りると、北斗は欠伸ばかりをしていた。
「なんや、北斗寝足りへんのか?」
「ちょっと昨日遅まで走りすぎたわ」
 そう言って大輔に苦笑いを返す。ふっと調理場を見ると、調理担当でもないはずの真由子が忙しく動き回っていた。
(相変わらずやな)
 きっと動いている方が楽なんだろうなと思いながら、北斗はもう一度欠伸をする。
「おまえ、そんなんで明日の大会大丈夫か?」
「平気平気。帰ったらまたジョグして寝るからな」
 そう言って笑う北斗に、大輔は呆れたような顔を返す。
「ほんっまに陸上バカやな、佐竹は」
「俺、これしか取り柄あらへんからな」
 そう言って笑う北斗の前に、朝食の盆が置かれた。
「おはようございます、佐竹先輩、小田先輩」
 声に顔を上げると、真由子がいつもの笑顔で笑っていた。
「おう、斉藤。おはよう」
「しっかり食べて、バスの中で酔わんといてくださいよ。寝不足は車酔いには大敵ですから」
「人を虚弱児みたいに言うな!」
 北斗がそう反論すると、真由子はころころ笑いながら調理場へ戻っていく。
「おまえと斉藤も相変わらずやな」
 大輔がまた呆れたように言う。
「ははは…。違いない」
 北斗はそう笑う。昨晩の今朝だけに、真由子もまだ気持ちの整理はついていないのだろうが、それでもこうして普段通り笑ってくれるのだ。ちらっと目で追うと、部内一小さな背中は、相変わらず忙しそうに駆け回っていた。
(諦めたら、もったいないよな)
 北斗はそう思うとまた笑う。
「俺らが一番先に配られたっちゅうことは、俺らが一番冷えた飯食わなアカンってことか?」
 配膳の順番に気づいた大輔が、そう不満げに口を開いた。
「行きのバスで大笑いしたことへの反撃やな」
 北斗はそう笑ってからもう一度真由子の姿を追うと、その北斗に気づいた真由子はイーっと舌を出してから、からかったように笑う。そうして、すぐに配膳へ戻っていった。
(やっぱ、かわいいよな)
 北斗はそう思い直すと、もう一度笑う。
(諦めたらもったいない)
 そう笑う北斗に、大輔は訝しげな表情を見せていた。

 県地区予選の日がやってきた。
 圭介の世話と家事を放棄して早起きしただけに、真由子の体調はすこぶるいい。
「よお、斉藤。おはよう」
「あ、佐竹先輩、おはようございます」
 北斗とも、前のように話せる。少しの無理があるとしても、それはふたりの関係が少し変化したと言うだけのことだ。
「記録、出そうか?」
「とりあえず狙っていきます」
 真由子はそう言うと、北斗に笑顔を向ける。北斗も、真由子に優しい笑顔を返した。
「俺も、予選落ちせん程度に狙うか」
「そうですよ! みんなで県大会出ましょうよ!」
「そうやな。俺も頑張るか」
 その言葉は、やがて現実のものとなる。
 真由子は100m走で女子の中、唯一11秒台となる11秒96でダントツの成績を残して通過。また、由衣も3000mで他の選手を寄せ付けず、一人9分台の9分52秒69で圧勝する。北斗もまた、200mで22秒93を出し、予選突破に成功した。
 陸上部の中で、予選を突破できたのはこの3人だけだった。
「由衣ちゃ〜ん、おめでと〜っ!」
「マユもおめでと〜っ!」
 結果が発表になったあと、思わずふたりはそう言って抱き合う。回りの奇異の目もお構いなしだ。それほどに嬉しかったらしい。
「佐竹先輩も予選通過したし、3人で県大会出場やな」
「うん! インハイに行けるように頑張らなな!」
 そこで、由衣からふっと浮かれた表情が消えた。真由子は首を傾げる。
「あたしさ、インハイ行けたら、佐竹先輩に告白しようと思てんねん」
 少し俯いて、頬を軽く染めながら由衣ははっきりとそう言う。
「だから、こんなところで負けてられへん。自分で決めたところまで行って、自分の口で伝えたい」
 その由衣の言葉に、真由子は俯いてしまう。合宿最後の夜の、北斗の言葉が耳の奥で響いた。
「由衣ちゃん…、わたしさ、佐竹先輩に告白されてん…」
 そう言う真由子に、由衣は少し驚いた表情を見せたが、すぐにニッと笑う。
「やろうな。佐竹先輩、マユのことが好きなんやと思っとった」
「知ってたんや?」
「気づかんマユが鈍過ぎんねん。で、どうしたんや?」
「断っちゃった」
 そう言って、真由子は微苦笑する。
「あたしに遠慮したん?」
「違う違う…。佐竹先輩、タイプじゃないから…。先輩としては、すごくいい人だと思うけど…」
「なんか歯切れ悪いなあ。ホンマは他に好きな人がおんねやろ?」
 いたずらっ子の表情になった由衣に、真由子は少し狼狽える。その変化を由衣は見逃さない。
「誰なん、誰なん? 誰にも喋らへんから教えてーな!」
「…お兄ちゃん」
 しばらくの沈黙のあと、真由子はぽそっとそう呟いた。
「…え? お兄ちゃんって、一緒に住んでる高遠先輩のこと?」
 由衣の言葉に、真由子は黙って頷く。
「従兄妹…やんな?」
「…だって、しょうがないやん…」
 そう言う真由子の横顔は真っ赤になっていた。そう言って黙り込む真由子に、由衣は小さくため息をつく。とても常軌を逸しているとは笑えなかった。真由子の思いに真剣みを感じたからだ。
「まあ、従兄妹同士は結婚できるしな。一緒に住んでんねんから、頑張り」
 由衣はわざと明るい声を出して、真由子の背中を叩く。
「痛いって、由衣ちゃん」
 そう言って抗議する真由子の表情は、どこか冴えないものだった。

「ただいま〜」
「おう、お疲れ」
 マンションのドアを開けた真由子は、部屋から飛び込んできた圭介の声に思わず顔を上げた。
「どうやった、地区予選」
「一応、突破した」
 真由子はわざと明るい笑顔を作って二本の指を立てる。
「そうか。良かったな。それより、晩飯頼むわ。腹減って死にそうなんやわ」
「おにーちゃん喫茶店でバイトしとお癖になんで料理できへんの?」
「できへんのとちゃう。面倒くさいからせえへんだけや」
「ぐーたら!」
 真由子はそう言いながらも笑っている。今年の春、両親が海外へ行ってしまって、寂しさと心細さを紛らわすため以外に、一緒にいたいために転がり込んだこの部屋。それからもう3ヶ月以上の月日が経った。やはりというか、一緒にいられることだけで嬉しい。淋しさも、心細さも感じずにいられたのは、圭介の存在のお陰だと言うことを真由子はよくわかっている。だから、このあまりにものぐさな態度さえ、感謝の裏返しとして笑って許せるのだ。
「ねえ、おにーちゃん」
 夕食の準備をしながら、真由子は不意に圭介に声をかける。圭介は漫画を読む手を止めて首を上げた。
「なんや?」
「サマーカーニバルの花火、行くん?」
「ああ、前にポートピア行ったメンツでな。それがどないしたんや?」
「わたしも、ついてってええ?」
 圭介の表情を伺おうと、真由子は半身振り返る。
「ああ、ええで。武藤や高橋も、真由子のこと知らんわけやないしな。佐竹もおるし」
「うん!」
 圭介の笑顔に、真由子は特上の笑顔を見せると、大きく頷いた。
「ただし、武藤が言うには女は浴衣厳守らしいで」
「えーっ! わたし浴衣なんて持ってへん! お兄ちゃん買ってよ!」
「無茶言うな!」
 その後も、圭介の部屋の台所では、ふたりの押し問答の声が響いていた。
 6日ぶりに、賑やかな日常が戻ってきた。

                                  To be continued…

2005.06.05 Ver.1.00 Up
2007.09.06 Ver.2.00 Up

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